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仙台地方裁判所 平成10年(ワ)333号 判決 1999年5月24日

原告

甲野春子

右訴訟代理人弁護士

水谷英夫

小島妙子

門間久美子

松井恵

倉林千枝子

内藤千香子

丸山水穂

角田由紀子

井野場晴子

被告

乙山秋夫

右訴訟代理人弁護士

斎藤正勝

浦井義光

伊藤恒幸

小野田耕司

主文

一  被告は原告に対し、金七五〇万円及びこれに対する平成一〇年三月二六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを四分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する平成一〇年三月二六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告が東北大学大学院国際文化研究科a講座に在学中に、指導及び論文審査の担当教官であった被告から、性的な言動によって学習研究環境を害され、性的関係を強要される等されて性的自由を奪われるなどの人格権の侵害を受けるとともに、学問、研究を享受する利益を侵害された上、原告の被害申告を受けて右研究科が実施した事実調査の過程においても、被告が虚偽の弁明をするなどして、著しい精神的苦痛を与えられたとして、民法七〇九条、七一〇条に基づき慰謝料の支払いを求める事案である。

一  争いのない事実及び証拠によって容易に認められる事実

1  原告は、平成四年三月獨協大学外国語学部英語学科を卒業し、同年六月から平成五年四月まで社団法人日本観光協会(運輸省の外郭団体)に勤務した後、同年四月に東北大学大学院国際文化研究科(以下「研究科」という。)a講座(以下単に「講座」という。)博士前期課程(以下「修士課程」という。)に入学して、平成七年三月に同課程を修了した。原告は、引き続き同年四月に、同講座の博士後期課程(以下「博士課程」という。)に進学し、平成八年六月に同講座の助手に就任して、平成一〇年三月までその職にあったが、現在は石川工業高等専門学校の講師を務めている。なお、原告は、講座に在学中、福島県二本松市の親許に同居し、仙台市所在の同大学まで長距離通学をしていた。

2  被告は、一八世紀のフランスを中心とする書簡文芸論及び翻訳理論を専攻しており、原告が修士課程に入学した平成五年四月当時から現在まで講座の助教授の地位にある。被告は妻帯者であり、妻との間に一子がいる(甲五三)。

3  東北大学大学院国際文化研究科規定(以下「規定」という。)によれば、研究科の教育は、前期二年の修士課程にあっては授業科目の授業及び学位論文の作成等に対する指導(以下「研究指導」という。)によって行うものとされ、後期三年の博士課程にあっては、研究指導によって行うものとされていた(五条)。そして、各学生毎に、授業科目の履修の指導及び研究指導を行うための指導教官が研究科教授会で定められ、学生が履修科目の届出を行うに当たっては、指導教官の指示に従うことを要し、研究の題目を研究科長に届け出るに当たっても、指導教官の承認を得ることが必要であった(七条)。さらに、修士課程及び博士課程を修了するには、修士ないし博士論文を提出して、その審査及び最終試験に合格することが必要であるが、これらの論文の提出は、必要な研究指導を受けた者でなければ提出できないものとされていた(一七条ないし二〇条)。また、研究科教授会の申し合わせによって、修士学位論文の審査委員については、原則として研究科の教授二名を含む三名を、論文提出後に当該講座の原案に基づき、教授会の議決によって選出することとなっており、博士学位論文の審査委員には、提出者の指導教官全員が当然に加わることとされていた(甲一、一一、一二)。

4  講座は、原告が入学した平成五年四月に新設されたばかりであり、所属教官は、被告の外、中世ドイツ文学専攻のA教授及び英語学専攻のB助教授の三名であった。原告の修士課程一年目の主指導教官はA教授、副指導教官はB助教授及び他講座であるb講座の所属でドイツ言語学専攻のC助教授(以下「C助教授」という。)と指定され、原告は、主にC助教授とB助教授の指導のもとで、米国人思想家ベンジャミン・リー・ウォーフの主唱する言語相対論の英語等を用いた検証をテーマとして研究を進めようと考えており、被告との接触は少なかった(甲六、五〇)。

5  原告は、修士課程二年次に進級後の平成六年六月頃、研究テーマをウォーフの言語観の考察に変更し、ウォーフの論文の読解を中心として修士学位論文を執筆することとなった。これに伴って、被告が実質上原告の修士論文作成の指導を担当することとなり、後日、被告は、A教授、B助教授、C助教授とともに修士論文の審査教官にも選出された(甲七、八)。

6  原告は、平成六年一〇月中旬頃、被告に修士論文の原稿を提出したが、被告は、原告の草稿を、原告所有のワープロ専用機と互換性のない被告研究室に備え付けのパソコン用のデータに変換して読み取らせ、以後、原告は、被告の研究室で論文指導を受けるようになった。その回数は、当初は、週三ないし四日であったが、その後連日となり、論文提出期限の前日である同年一二月一四日は、原告と被告は、被告の研究室で徹夜した。

7  原告が平成七年四月に博士課程に進学すると、被告は、同課程における原告の指導教官となった。原告と被告は、原告の右進学後に開催された日本コミュニケーション学会東北支部の例会に参加し、同年六月二三日から二六日にかけて札幌市で開催された日本コミュニケーション学会にも共に参加した(以下これを「札幌出張」という。)。この間の同月二四日の午前中、二人で札幌市の芸術の森に行った際、被告が、原告に対し、指導教官をB助教授に代わってもらおうと思うという内容の発言をし、原告が指導継続を懇願したことがあった。原告と被告は、同月二六日、洞爺湖へ行って遊覧船に乗った後、飛行機に同乗して帰仙した。なお、被告は、平成七年四月までは、日本コミュニケーション学会はもとより東北支部の例会にも参加したことはなかった(甲一〇)。

8  原告は、平成七年六月一〇日、東北大学国際文化学会において研究発表をしたが、右発表後にめまいと動悸が激しくなって廊下で倒れ、被告の研究室でしばらく休んだことがあった。この間、被告は、研究室で原告に付き添った。また、同年七月一日、被告と共に日本コミュニケーション学会東北支部例会に参加した後にも、原告は、被告と夕食に行った料理店で脳貧血を起こした。被告は、原告をタクシーで仙台国際ホテルに送り届けて一人で宿泊させ、翌朝、ホテルに迎えに来て、自宅に帰る原告に二本松駅まで同行した。

9  札幌出張の後、被告は、接吻したり、抱擁するといった原告との性的接触を被告の研究室において持つようになった。

10  被告は、平成七年七月二二日から二三日にかけて原告と二人で盛岡方面に旅行し(以下「盛岡旅行」という。)、同月二二日、盛岡市内のホテルにおいて、初めて原告と肉体関係を持った。右旅行の後、被告は、研究室を施錠して、原告と性的接触を繰り返すようになった。また、被告は、同年七月三一日と八月一五日に原告と福島市内のホテルに同宿して肉体関係を持った。

11  被告は、同月二五日には原告と塩釜にサンセットクルージングに行ったが、これを最後として、学外で原告と私的に会うことはなくなった。また、原告は、平成七年一〇月二一日に日本コミュニケーション学会東北支部例会で被告と共同発表を行ったのを最後として、被告の指導を受けることがなくなった。

12  原告は、講座の助手となった後の平成九年四月頃、被告からセクハラの被害を受けていたとして、東北大学職員組合北川内支部(以下「組合」という。)に申し出るとともに、研究科に適切な調査と厳正な処分を申し入れた。研究科では、科長の井原聰教授(以下「井原科長」という。)を中心として、原・被告双方から個別に事情聴取をして事実関係を調査するなどした上、教官会議と研究科教授会の議を経て、平成九年七月一八日付けで被告に対し、学生指導上教官としての立場にふさわしくない行為があったとして厳重注意を申し渡した(甲一六、一八、甲六一の七の一・二)。

二  原告の主張

被告は、以下のとおり、原告の修士課程二年次である平成六年一〇月中旬頃から平成八年三月頃までの約一年半にわたり、自らの指導教官及び論文審査教官としての地位を濫用し、当初は被告の研究室における密接指導に名を借りて不快な性的言動を行い、次いで札幌出張の機会に、「君に恋愛感情を持っているから指導教官を降りたい。」等と、被告の意向に原告が逆らえば、指導を放棄され、研究職としての道を断たれるかもしれないと思わせる言動をして、原告の不安をあおり、これ以降原告をして性的接触に応じさせた。さらに、原告から精神科への通院を打ち明けられるや、その治療にかこつけて肉体関係を持ち、原告に拒絶されるようになると、一転していやがらせを行なったり、つきまとう等のストーカー的な行為を繰り返したりした上、その後の研究科の調査に対しても、虚偽の申告をするなどした。これら一連の被告の行為は、原告の性的自由等の人格的利益を著しく害するとともに、原告の研究教育条件を著しく侵害したもので、不法行為を構成し、これによって原告が受けた多大の精神的苦痛に対する慰謝料としては、金一〇〇〇万円が相当である。

1  修士課程における被告の性的言動

(一) 被告は、前記一6のように原告の原稿を自分のパソコンに読み込んで、被告の研究室以外では修士論文の作成ができないようにして原告を事実上長時間研究室に拘束した。そして、被告の研究室で原告と二人きりになり、原告を被告のパソコンの所に並んで座らせ、原告の顔を凝視しながら、被告の質問に原告が答える形で、被告自らがパソコンを操作して論文を作成していったが、この間、「きれいだね。」等と言っては原告を凝視したり、しばしば性的な冗談を発する等の行為を繰り返し、また、ほとんど連日、原告に昼食と夕食をともにすることを強制した。

(二) また、被告は、原告の指導を担当するようになって以降、原告の受講していた演習日の翌日である金曜日の午前一〇時過ぎ頃に、ほぼ毎週のように原告の自宅に「寝てた。」といった電話を掛け、原告の私生活にも干渉していた。

(三) このような被告の行為によって、原告は、平成六年一一月四日から一八日まで発熱、血尿等の身体的損傷を受け、三週間にわたって研究の中断を余儀なくされた。

2  札幌出張の際の不法行為

(一) 被告は、当初教職の選択を考えていた原告に対して博士課程への進学を強く勧め、博士課程試験の受験に際しても、合否判定の要素とされる研究計画書を自ら作成して手渡すなどの指導を行った。そして、平成七年四月に原告が博士課程に進学した後は、指導教官となり、単著論文の投稿や被告と共同での論文作成、学会での共同発表といった原告の具体的な研究計画を指示・決定して、原告に対するより一層の絶対的権威と権限を確立した。

(二) 前記一7のとおり、被告は、札幌出張中の平成七年六月二四日、指導教官交替の話を持ち出し、その際、原告に「君に恋愛感情を持っているので指導教官を降りたい。」と述べた。当時、原告は、被告の指導のもとで博士課程での研究を開始したばかりであり、しかも同月中には、被告の指導による単著論文の投稿申込みの締切りと博士課程研究題目の発表会を控えていた上、同年九月締切りの単著論文と同年一〇月締切りの被告及びB助教授との共著論文の研究も進めていた最中であった。したがって、被告のこのような発言は、原告にとっては、研究条件の著しい後退のみならず、研究者としての道の断念に通ずるものであり、原告は、被告の意に逆らうと指導を放棄されるかもしれないという恐怖感を抱いたため、引き続き被告に指導してほしいと懇請した。

(三) 被告は、これに意を強くし、札幌出張中毎晩ホテルのバーで深夜まで原告に飲食を付き合わせた上、同月二六日には、洞爺湖の遊覧船上で前方から手すりに追いつめるような形で原告に抱きつき、さらに仙台に帰る飛行機の中では、原告の手を強く握って着陸まで離さないといった行為に及んだ。

3  性的接触及び肉体関係の強要

(一) 被告は、札幌出張から帰った後の平成七年六月末頃から前記一9のとおり日常的に研究室で原告に言い寄って抱きつくようになった。原告は、被告の言動が原因となって、同年五月下旬頃から不安神経症で精神科で通院治療を受けていたが、これがために平成七年六月末頃から七月初め頃にかけて、離人症等の神経症状が一層悪化するようになった。

(二) 原告は、遅くとも同年七月一〇日までに、被告に精神科に通院していることを打ち明けた。これに対し、被告は、「過去にも分裂病の男子学生二人の面倒をみたことがある。」、「俺が治療者としての役割を引き受ける。」等と、あたかも精神科系の病気に詳しく、原告の症状を治療してやれるかのように申し向けた上、原告を当時交際していた男性と別れさせようとして「交際相手が病気の原因だ。」と言ったり、「薬を飲んでいると廃人になる。」と言うなど、原告の研究者としての不安や病気による不安を煽る脅迫的言辞を繰り返し、被告の要求に抵抗できないような状況に追い込んでいった。そして、以後頻繁に論文指導を名目として、原告を被告の研究室に呼び出しては、治療と称して原告の肩や顔に接触し、原告にキスをしたり、抱きついてソファーに押し倒すといったわいせつ行為を繰り返し、さらに原告が自宅にいる時には頻繁に電話をかける等した。原告は、被告が指導教官であることや、治療行為と言われていたことから、これらの行為を拒絶することができなかった。

(三) 前記一10の平成七年七月二二日の肉体関係は、右のような状況の中、被告が「恋愛関係を持たないなら(原告の精神病の治療に関する)助言者にもなり得ない」等と原告を脅迫した末、神経症のため体調不良の原告を盛岡旅行に連れ出し、原告が双方の地位関係、精神的失調から抵抗できずにいるのに乗じて強要したものである。被告は、翌二三日の観光中にも「定期的に抱くにはどうしたらいい。」と暴言を吐いた。

(四) 盛岡旅行から帰った後の同年七月下旬以降、被告は原告を頻繁に研究室に呼び出しては、論文指導と称して、研究室に鍵をかけたまま、原告に抱きついてキスをしたりソファーに押し倒すといったわいせつ行為を繰り返した。併せて、同年八月下旬までの前後四、五回にわたって論文指導等の名目で原告を自宅から福島市に呼び出し、この間前記一10のとおり同年七月三一日にはホテルで再び原告に肉体関係を強要した。被告は、同年八月上旬、「彼か僕かを選べ」等と交際相手と別れるよう原告を脅迫し、追いつめられた原告は、同月一三日頃、交際相手に別離を告げ、その旨を被告にも連絡した。これによって原告は、極度の抑鬱状態になって自宅に引きこもっていたにもかかわらず、被告は、同月一五日、原告を福島市に呼び出し、重度の神経症と深い打撃で抵抗力のない原告に強要して前記一10のとおりホテルで肉体関係を持った。その上、原告が、交際相手と別れた悲しみと望まない性的行為をされた惨めさの余り泣いていると、「いつまでも泣いていたって仕方ないだろう。」と暴言を吐いた。

4  関係終了後の被告のいやがらせ等

(一) 原告は、平成七年八月一五日に三度目の肉体関係を持たされた後の被告の暴言を聞いて、被告に対する不信感を覚えるとともに、もう失うものは何もないという状態になり、被告の構想下での研究者としての将来と決別する気持ちとなって、同月末にかけて徐々に神経症、抑鬱状態から回復するとともに、被告の要求を拒絶できるようになってきた。一方、被告は、あいかわらず地位を利用して原告を頻繁に呼び出していた。前記一11の同月二五日の塩釜でのクルージングも、被告が同行するよう要求したものであり、被告は、右クルージングの帰りに「これを最後に君から離れる。」と言って原告をホテルに誘ったが、原告は拒絶した。

(二) 被告は、同年九月下旬から、論文指導の名目で原告を連日研究室に呼び出し、「(論文を)審査するのは俺なんだから、俺がいいといわなければだめだ。」等といって原告を執拗に研究室に留め置いた。また、原告が、同年九月二二日頃、被告に「距離を置いてください。」と訴えたところ、被告は、その翌日頃に、従前徐々に良くなってきていると評していた完成間近の論文について、締切り一週間前であるにもかかわらず大部分を書き直すように指示し、報復のいやがらせをした。

(三) 前記一11の被告との共同発表の終了後は、原告は、被告を極力避けるようにしていた。それにもかかわらず、被告は、同年一〇月下旬から一二月上旬にかけて、原告を助手に採用する旨申し出たり、自らの専門とは関連が薄いにも関わらず、原告が独力で手がけ始めた分野の講演会に出席して原告のためのレジュメを作成したりした上、同年一二月二五日には原告に電話して、「自殺願望が抑えられない。君にしか頼れない。君の行っていた病院名を教えてくれ。そこでは精神分析をやっているだろうか。一緒に行ってほしい。」といった異常な発言をし、その後も原告の自宅に頻繁に無言電話や間違いを装った電話を掛け続けた。原告は、平成八年一月頃、被告に対して電話をやめるよう抗議したが、被告は、それ以降も学内で原告をつけ回す等して原告とのつながりを保持しようとストーカー的な行為を繰り返し、結局、同年四月に入り、原告が「以降、一切関わらないで下さい。」という強い抗議をして、ようやく右行為は終息した。

5  研究科による調査に対する被告の不誠実な対応

被告は、井原科長の事情聴取に対し、当初は原告との性的関係を一切否定する虚偽の主張をし、その後も盛岡旅行について友人である他大学の教官に偽証工作をするなどしていたが、宿泊の証拠を突きつけられて、ようやくにして肉体関係があったことを認めた。しかし、被告は、その後も原告が積極的に被告を誘ったかのように事実を否認または歪曲して不誠実な対応をとり続け、これによって、原告は、この調査の過程においても、著しい苦痛を受けた。

三  被告の主張

被告は、三名いる指導教官の内の一人で、しかも最年少の副指導教官にすぎず、原告の主張するような影響力はなかった。被告は、以下のとおり、修士論文の指導中に原告の主張するような言動などしていないし、札幌出張の際に指導教官を降りたいと言ったことについても他意はなく、この時恋愛感情などとは発言していない。その後に性的接触及び肉体関係を持ったのも、あくまでも原告との自由意思に基づく恋愛関係の中でのことであって、被告が指導教官としての地位を背景に強引に関係を迫ったものではなく、研究科の調査に対しても、その旨を率直に申告しているから、不法行為は成立しない。

1  修士課程における被告の性的言動について

(一) 原告の主張1(一)は否認する。被告が論文作成に当たって被告のパソコンを使用するように指示したのは、論文の締切りが切迫しており、原告のワープロで作成した論文を添削する方法では、原告の能力からして締切りに間に合わないと考えたためにすぎず、他意はない。原告は、B助教授に依頼して、ワープロ専用機のフロッピーディスクをパソコン用データに変換してもらい、これを被告の研究室に持参したり、パソコンのデータを印刷して自宅に持ち帰って推敲することも行っており、自宅で論文を作成することも可能であった。また、原告は、二本松市から通学していた関係から被告の研究室に来るのは午後が多く、指導時間もせいぜい三時間程度に過ぎなかった。

(二) 同(二)は否認する。被告は、毎週金曜日の午前八時五〇分から一〇時二〇分まで授業を行っており、原告の主張のような電話をすることは不可能である。

(三) 同(三)は否認する。

2  札幌出張の際の不法行為について

(一) 原告の主張2(一)のうち、原告が教職の選択を考えていたことは認め、その余は否認する。当時、原告を含めて誰もが原告が研究者になれるとは考えておらず、原告が博士課程に進学した主な理由は、教職課程の英語学の単位を落としており、その履修の必要があったからである。原告に最も大きな影響力を持っていたのは、主指導官のA教授であったし、三名の中で最年少の副指導官にすぎない被告が勝手に研究構想を決定することはできず、これを決定したのは、三名の指導官の合議によるものである。

(二) 同(二)のうち、原告が単著論文の研究を進めていたこと、研究題目発表会を控えていたことは認めるが、その余は否認する。被告が指導教官交替の話をしたのは、英語の必要な原告の研究テーマについて、フランス語が専門の被告では指導が難しく、英語が専門のB教授でないと無理だと従前から考えていたからであって、原告に恋愛感情を持っているなどと発言したことはない。この時点では、原告は単著論文のみで手一杯であり、共著論文は被告だけが準備を進めていた。また、被告は、原告の指導継続の懇願に対しては、再度「専門家のB先生にお願いすべきだ。」と発言するにとどめ、札幌においては指導の継続を言明しなかった。被告が不本意ながら原告の指導継続を決めたのは仙台に戻ってからであるが、その理由は、他の教官が忙しかったし、原告が一年限りで博士課程をやめて教職につくとも聞いていたからである。

(三) 同(三)は否認する。洞爺湖の遊覧船は観光客で込み合っており、原告に抱きつける状態ではなかった。また、札幌から仙台に向かう飛行機において被告の手を握ってきたのは原告である。被告は、原告が飛行機に弱く、恐怖心からのことと理解し、成熟した女性というよりは幼い姪の手を握るような感情で握り返したにすぎない。

3  性的接触及び肉体関係の強要について

(一) 原告の主張3(一)及び(二)は否認する。被告が原告と初めてキス及び抱擁をしたのは平成七年七月一八日のことであり、その後、被告は、原告から「先生が好きです。」との告白を受けた。このように、原告と被告との性的接触は、原告の自由意思による恋愛関係の中で始まったものである。また、被告が通院の事実を聞いたのは、盛岡旅行から帰った後の平成七年七月二六日の原告からの電話によってである上、被告は、原告の主張するような発言などしておらず、医師の指示に従うように言ったにとどまる。

(二) 同(三)は否認する。盛岡旅行は、原告が気分転換に小岩井牧場に行ってみたいと希望したため計画したもので、ホテルでの肉体関係についても、被告が本格的な関係に入るか尋ねたのに対し、原告がこれを承諾して、原告の宿泊室に被告を招き入れて持ったものである。当時原告の体調は良好であり、二人の関係は、原告の自由意思によって始まった恋愛であった。

(三) 同(四)のうち、被告の研究室を施錠して原告と性的接触を持ったこと、何回か福島市に出向いて原告と会ったこと、原告から交際相手と別れたと聞いたことは認めるが、その余は否認する。原告が自由意思で被告の研究室を訪れて性的接触を持ったものであり、被告が呼び出したことはない。また、福島市へ被告を呼び出したのは原告であり、平成七年七月三一日にホテルに同宿して肉体関係を持ったのも、原告から今晩はどうしても一緒にいてくれと懇願されたためである。被告が原告に交際相手と別れるよう言ったことなどなく、むしろ、被告は、同年八月一〇日には、原告の被告に対する依頼心が強すぎるし、被告と交際相手への愛情の板ばさみになっているから、しばらく自宅で一人で論文を進め、冷静に被告と交際相手とのことを考えるよう話をした。同年八月一五日の肉体関係についても、原告が「会いたい。」と被告を呼び出した上で結んだもので、原告は、抑鬱状態になどなかった。

4  関係終了後の被告のいやがらせ等について

(一) 原告の主張4(一)のうち、被告がサンセットクルージングからの帰途、原告に別れようという内容の発言をしたことは認め、その余は否認する。クルージングへ行きたいとせがんでいたのは原告であり、被告は、その帰りに仙台駅で、原告の論文の大枠がほぼ決まったことでもあるし、何よりもこのままでは二人ともだめになるので男女としてはきっぱり離れてお互いに冷静になろうと話し、原告も別れることを合意したものである。

(二) 同(二)は否認する。審査教官はこの時点では未定であり、原告の主張するような発言をするはずがない。

(三) 同(三)は否認する。

5  研究科による調査に対する被告の不誠実な対応について

原告の主張5は否認する。被告は、研究科による調査の過程において、原告との恋愛感情が赴くまま肉体関係を結んだことを進んで認めている。

四  争点

1  被告の不法行為の成否及びその内容

2  1が認められる場合の原告の慰謝料の金額

第三  争点に対する判断

一  本件の事実経過

前記第二の一の事実に加えて、証拠(甲六二の一・二、原告本人及び以下括弧内掲記の証拠)によれば、次の事実が認められる。

1  原告が修士課程二年次に在籍中の状況

(一) 原告は、修士課程二年次に進級する前後から、B助教授の指導の下にウォーフの論文を講読する等して、英語等を用いたウォーフの理論の検証という当初の構想に従った修士論文の準備を進めていた。しかし、修士論文の題目届出期限を平成六年六月末に控えて、当初の構想では、修士論文のテーマとしては大きすぎることが次第に明確となり、折から、B助教授と被告が協議の上、構想の変更を指示してきたこともあって、原告は、前記第二の一5のとおり、ウォーフの言語観の考察、すなわちウォーフのテキストの読解に研究テーマを変更した。そして、同年七月に教授会で決定された原告の修士論文の指導担当教官の割当ては、一年次と同様であったものの、被告は、同年六月下旬から七月頃にわたり、テクスト読解法についての資料や右手法を原告の修士論文にいかに応用すべきかを詳細に指示した資料を作成し、原告に渡すなどして、原告の修士論文作成に密接に関与し始めた。そして、夏期休暇中の講座の話し合いで、原告の論文指導は実際には被告が担当することとなり、原告は、同年九月頃、その旨を被告から伝えられた。原告は、この間の同年八月から自宅のワープロ専用機で論文の執筆を始め、同年一〇月中旬から下旬にかけて修士論文の草稿を被告に提出した(甲七、三〇ないし三三)。

(二) 右草稿の提出を受けた被告は、草稿にコメントを付して返却する傍ら、原告に「あれは論文ではない」等と述べ、原告の草稿の入力されたフロッピーをB助教授に依頼してパソコン用に変換し、被告研究室備え付けのパソコンで読みとらせた。被告は、予めウォーフの論文の邦訳を文庫本で読んでおり、これを基にして、原告の草稿の中から被告が論文に使えると認めた部分だけを取り出し、その余の部分を削除して、以後原告と被告は修士論文の作成に取りかかった。右論文作成の方法は、被告がパソコンに向かい、原告をその傍らに座らせ、序章から一言一句、文章の書き出しを入力しては、「さあ、こう来れば次はどうなる。」などと質問して、原告にその続きを答えさせ、被告の思うとおりの答えが出なければ非難し、被告の思い通りの答えが出れば褒め、これをパソコンに入力して、原告の作成した草稿のうち論文として使用できるとして残した部分を適宜配列するというものであった。原告は、被告の質問に回答するまで時間がかかることが多く、また、被告の望む答えをすることも困難で、長時間思考することが多かったが、その間被告は、薄笑いを浮かべ、原告の顔を見つめて「きれいだね。」と言ったり、「産出」という用語に対して「これが出産だったら大変だね。」といった性的な冗談を言うなどしていた。また、原告は、昼食、夕食とも被告におごられることが多かったが、昼食については、B助教授やその指導を受けていた講座の他の学生二名も交えた五人で一緒に取ることもあった(甲四五)。

(三) 原告は、平成六年一一月四日から一八日まで感冒様症状による発熱と尿潜血反応で二本松市の病院に通院加療をし、研究の遅延を余儀なくされた。同年一二月に入ると、原告は、土日も含めて午前九時から午後九時頃まで、被告の研究室で論文指導を受けるようになった。原告は、提出期限の前日である同年一四日には、徹夜して参考文献の入力や校正作業を行った。この日の夕方までには論文の本体はできあがっていたため、原告は、被告に、「研究室を荒らしたりしませんからどうぞお帰りください。」と伝えたが、被告は研究室のソファで寝たり、原告の様子を見るなどして研究室で一緒に夜を明かした。なお、このようにしてできあがった原告の修士論文は、A四判で四五頁くらいの分量であったが、被告によっても、実際にはうち二〇頁分くらいは原告の草稿を残しており、被告が、「論文ではない。」と評したのは、主に学術論文としての体裁に関してであった(被告本人、甲六七)。

(四) 原告は、このような被告の指導を通じて無力感を感じる反面、被告に膨大な時間を割いて指導してもらったという負い目を覚え、陶器入りの紅茶を礼として贈った。一方、被告は、右論文提出後、毎週木曜日の演習終了後に研究室へ原告を呼び出すようになり、また、この頃から、毎週金曜日の授業を早めに切り上げて、午前一〇時頃に原告の自宅に「寝てた。」等と電話を掛けてくるようになった。この間、被告は、平成六年一二月二六日の教授会において、前記第二の一5のとおり修士論文の審査委員の一員に指名され、原告は、平成七年三月八日の教授会で修士課程合格と認定された(甲八、九、二三)。

(五) 原告は、右論文提出後、研究者としての道を諦めて教職に就くことも考えたが、被告に相談したところ、原告には問題発見能力があるとして、博士課程への進学を勧められ、博士課程の受験を決意した。被告は、原告が博士課程に出願するに当たって提出する研究計画書の内容を示唆したメモを作成して渡すなどする反面、B助教授は原告を研究者として評価しておらず、被告がA教授やB助教授を説得して原告の博士課程受験を承諾させたかのような発言をした。現にB助教授は、原告は論文を組み立てる力がなく、研究者としての可能性には無理があると考えていた(甲三五、甲六一の二の二の一八頁)。

2  博士課程に進学した平成七年四月から札幌出張までの状況

(一) 被告は、原告が博士課程に進学した平成七年四月上旬頃、一年目の研究計画として、同年六月に東北大学国際文化学会で単独発表を行い、九月に東北大学国際文化学会誌に修士論文を発展させた単著論文を投稿の上、一〇月中旬には被告との共著論文を「東北大学大学院国際文化研究科論集」に投稿し、同月末に日本コミュニケーション学会東北支部例会で被告と共同発表をするよう指示した。同じ頃、被告は、原告に対し、原告に研究者になれる能力がないと考えたらすぐにその旨を伝えるから研究者としての道を諦めて就職するようにと言った。原告も、研究者としての可能性がないと言われたら諦めて教職に進むことも考えてはいたが、一方では、就職先を退職し、家族の反対を押し切って講座に入学した経緯もあり、できれば研究者になりたいという思いも強く持っていた。なお、講座から博士課程に進学したのは原告だけであった(甲一〇、三六ないし四〇)。

(二) 原告は、博士課程に進学後は週四回は通学していたが、被告は、それにもかかわらず、原告の自宅に朝や夜に頻繁に電話を掛け、一日に数回に及ぶこともあり、電話に出た原告の母親に「何時の電車に乗った。」等と詳しく説明させることもしばしばであった。被告は、前同年六月二三日の教授会で、正式に原告の副指導教官に指名され、併せてA教授が主指導教官、B助教授がもう一名の副指導教官に指名された。しかし、A教授は、講座の唯一の教授として講座に所属する大学院生全員の主指導教官とされていたものの、原告とは全く専門が異なっていたし、B助教授についても、英語学の専門ではあったものの、被告の指導を受けるようになってからの原告の研究題目とは縁が薄かった上、あまり研究者として原告を評価しておらず、右指名以降も実際に原告を指導していたのはもっぱら被告であった(甲一〇)。

(三) 原告と被告は、平成七年四月又は五月頃に仙台市近郊で開催された日本コミュニケーション学会の東北支部例会に共に出席した。なお、被告は、既に平成六年四月に同学会に入会していたが、原告が平成七年四月に入会するまでは、同学会及び東北支部例会に出席したことはなかった(被告本人、乙九)。

(四) 原告は、平成七年五月六日から八月三日まで胃炎及び不眠で自宅近くの病院に通院し、投薬治療を受けた。また、平成七年五月二二日から家族にも内密で福島県立医科大学附属病院の神経精神科へ通院を始め、同年八月二八日まで、八回にわたって通院治療を受けた。原告には、不安、抑鬱、緊張、食欲不振、閉所恐怖といった症状が認められ、特に人前で緊張し、手が震えたり声がでにくくなるとともに、そのような状態になったらどうしようという予期不安と根拠のない漠然とした不安があり、全ての物事を悲観的にとらえていて、不安神経症と診断された。原告は、抗鬱剤、強力精神安定剤、緩和精神剤等の処方を受けたものの、通院期間中、明らかな症状の改善は認められなかった(甲五二、五四、六七)。

(五) 原告は、前記第二の一8のとおり、平成七年六月一〇日、東北大学国際文化学会での研究発表後倒れた。当日の夜は、原告は、同じく学会で発表をした修士課程の女子学生ともどもの慰労の趣旨で被告外一名と共に仙台駅前のホテルのバーで飲食したが、その後、自宅へ帰る新幹線に乗る前に再び吐き気とめまいで体調が不良となり、修士課程二年目の六月から交際していた交際相手の男子学生の家ヘタクシーで行って一泊した(甲六一の七の三)。

(六) 原告と被告とは、前記第二の一7のとおり、平成七年六月二三日から二六日にかけて、札幌出張をしたが、午後から学会開始を控えた同月二四日の午前中、被告は、原告を札幌市郊外の芸術の森に誘った。被告は、同所において、原告に対し、原告に恋愛感情を持っているので指導教官を降りたい、B助教授に交代して貰おうと思っているなどと発言した。原告は、修士論文の指導及び博士課程への進学の経緯や、同月二六日に博士課程の研究構想発表会、同月末日に九月締切りの単著論文の掲載申込みを控えていたことから、指導の継続を要請した。これに対し、被告は、当面指導を続けるが、指導教官としての立場を守り切れなくなったら降りると答えた。

(七) 同月二三日から二五日までの三日間、被告は、毎晩ホテルのバーに原告を誘って深夜まで酒食を共にさせた。同月二五日、原告がホテルの部屋に戻ったところ、翌日の予定を話し合うためとして被告の部屋に呼び出され、被告にどこに行くか問われて「洞爺湖」と答えた。

(八) 前記第二の一7のとおり、原告と被告は、同月二六日(月曜日)に洞爺湖に行った。遊覧船の甲板上で、被告は、原告を手すりに追いつめるような形で前から抱きつき、昼食中にそれに対して謝罪した。また、帰りの飛行機の中でも、被告は、思い詰めたような表情で仙台空港着陸の一五分前頃から着陸まで原告の手を強く握って離さなかった。到着後、被告は、原告をJR仙台駅の喫茶店に誘い、北海道での行為について謝罪の言葉を述べた。

3  被告が原告と性的接触及び肉体関係を持った経緯

(一) 札幌出張から戻った後の平成七年六月下旬頃から、被告は、原告に対する恋愛感情をあからさまに表現するようになり、被告の研究室で原告に背後から抱きついたり、他の大学院生や教官の同席する中で、原告を名前に「ちゃん」付けで呼んだりするようになった(甲二六)。

(二) 前記第二の一8のとおり、原告は、平成七年七月一日、被告と共に日本コミュニケーション学会東北支部例会に参加した後、被告と夕食に行った料理店で脳貧血を起こした。被告は、原告をタクシーで仙台国際ホテルに送り届けて一人で宿泊させ、翌二日の朝、ホテルに迎えに来て原告を二本松駅まで送った。原告は、同月一日に被告が帰った後、交際相手に電話をかけてホテルまで来てもらい、精神科に通院している旨を打ち明けた。交際相手は、なかなか原告の症状について理解できない様子ではあったものの、通院に同行する旨申し出てくれたが、原告はわざわざ福島まできてもらって長時間待ってもらうのは済まないと思い、この申し出を断わった。

(三) 原告は、前記2(五)や右(二)のように被告の面前で倒れたことや、神経症による研究への影響が懸念されたことから、遅くとも同年七月一〇日頃までには被告に精神科に通院していることを打ち明けた。被告は、治療内容を聞いて、自分が治療者としての役割を引き受けるから、薬は飲まないように言い、過去にも精神分裂病の男子学生二人の面倒を見たことがあると話した。原告は、被告が精神科系の病気に詳しいと思い、以後、被告を頼りにして、逐次病状を報告したり、薬をできるだけ飲まないようにするようになった。

(四) 平成七年七月から八月にかけて、原告は、二、三日に一度は指導のためとして被告の研究室へ呼び出され、ソファに被告と並んで座るように指示されて病状や服薬状況を尋ねられる一方、論文の指導を受けた。その際、被告は、不安を和らげるためと称して肩をもんだり、病状を聞きながら手を握ったり肩を抱いたりなどし、そのうち原告の顔や唇をなでたりキスをするようになった。また、被告は、フランス留学中にインド人から他人の精神の中に潜る「サイコ・ダイビング」を習ったので他人の心が読めるといった話をし、交際相手の心にも潜ったが、交際相手は原告を愛しておらず、原告の病気もそれが原因であるといった発言をするとともに、原告に対する恋愛感情を露わにした。原告が「先生には信頼関係だけなので年長の助言者となってほしい。」と要請しても、被告は、原告を愛しており、それゆえに原告は癒されているのに、ただの助言者になれというのは虫が良すぎる等と反論する傍ら、薬を飲むと徐々に薬が強くなって廃人になるから服薬はするなとか、交際相手のために原告は徐々に壊れているといった原告の不安感を煽るような発言を繰り返した。

(五) 前記第二の一10のとおり、同年七月二二日から二三日にかけて原告と被告は一緒に盛岡旅行に行った。これに先立つ同月二〇日頃、被告は、研究室において「恋愛関係を持たないなら助言者にもなり得ない。君には気晴らしが必要だ。二人でどこかへ一泊しよう。」等と迫った上、原告をタクシーに乗せてJR仙台駅二階の旅行代理店に連れて行き、盛岡のホテルのシングル二室を予約し、代金を全額支払った。被告は、同月二二日、小岩井牧場等を観光してホテルで夕食中、何時頃部屋に行ったらよいか原告に尋ねてきた。原告が、ここまで来て被告の要求を拒むことはできないと考え、「九時頃」と答えたところ、同時刻頃、被告が原告の部屋を訪れ、肉体関係を持った。関係を持った後、被告は「女子学生を犯しちゃった。」とふざけ、原告は、思わず「犯されたんじゃない。」と声を出した。その後、被告は、自分の部屋で寝ようと言って、原告を被告の部屋へ連れて行った。翌二三日は、平泉等を観光したが、被告は、「定期的に抱くにはどうしたらいい。」といった発言を繰り返した(甲六一の四の九・一一)。

(六) 盛岡旅行から帰った後も、被告は、二、三日に一度は原告を研究室に呼び出し、研究室を施錠した上、原告に抱きついてキスをしたり、上半身の衣服を半ば脱がせて胸を触ってなめたり、下半身を触るといった行為をした。

(七) 同年七月三一日、原告が自宅にいたところ、被告から「これから〇時の新幹線で福島に行く。」との電話で呼び出され、福島駅で落ち合った。被告は、妻には研究室に泊まると告げてきたと言って同宿を持ちかけ、福島市内のホテルの一室に偽名でチェックインし、前記第二の一10のとおり原告と肉体関係を持った。なお、これ以前にも、被告は、福島市に来て原告を呼び出したことがあったが、その日の内に帰ったため、この日も原告は宿泊することとなるとは考えないまま家を出てきていたので、原告は、ホテルの部屋から自宅へ友人宅へ泊る旨の電話を入れた(甲六一の三の四・七・九、乙二の一)。

(八) 原告は、同年八月四日から五日にかけて交際相手と東京に行き、同月五日に帰仙後、交際相手の家に一泊することとし、帰宅を一日延期すると自宅に電話したところ、母親から被告が何度も電話を掛けてきたので早く連絡するように言われた。原告が、横浜の友人宅にいると偽って被告宅に電話すると、被告は交際相手の家にいるのではないかと詰問した。同月八日に原告が被告の研究室に行ったところ、被告は、交際相手か被告かのいずれかを選ぶように迫り、原告は、交際相手を選ぶと告げた(甲二三)。

(九) その後二日ほどは、今まで毎日のように掛かってきた被告からの電話が途絶えたため、原告は、同年九月末に単著論文の提出期限を控えて指導を放棄され、今まで被告がしてくれた神経症の「治療行為」も受けられなくなるのではないかといった不安を覚えて、同月一一日頃自ら被告に電話して、同月一二日頃被告に会った。被告は、原告の精神病を治せるのは自分だけだ等と発言して、重ねて交際相手と別れて被告を選ぶように原告に迫った。原告は、同月一三日、交際相手に電話して別れることを合意し、その旨を被告にも電話で報告する一方、同日の晩及び翌一四日の午前九時頃に高校時代や大学時代の友人にも電話して涙ながらに交際相手と別離に至った経過を語った(甲二二、二五)。

(一〇) 原告は、交際相手と別れた衝撃で、同月一四日以降抑鬱状態が悪化し、食事もできず、自宅で寝込んでいた。被告は、同月一五日、原告が心配だから福島へ行くとの電話を掛け、福島駅に原告を呼び出した。そして、夕食を共にした後、前回と同じホテルへ原告を連れて行き、偽名で部屋を取って前記第二の一10のとおり肉体関係を持った。この時も、原告は、外迫することになるとは思っていなかったので、ホテルから自宅に友人宅に泊まるとの電話をした。肉体関係を結んだ後、原告が泣いていたところ、被告は、強い調子で「いつまでも泣いていたって仕方ないだろう。」と言った。翌一五日、被告は、論文指導のためと称して原告を仙台に向かう新幹線に同乗させたが、車中で気晴らしに松島に行こうと言い出し、原告を松島に連れて行って観光に同行させた(甲六一の三の五・六・八、乙二の二)。

4  肉体関係がなくなった後の経緯

(一) 原告は、前記3(一〇)の肉体関係を結んだ後の平成七年八月二〇日頃、婉曲に被告に距離を置いてほしい旨の申入れをした。しかし、一方で原告は、被告から同月二五日に提出期限が来る英文学(研究職として見込みがないと言われた時の就職に備えて教職資格を取るために原告が受講していた。)のレポートについて助言指導を受けており、その負い目から、被告の誘いに応じて、同月二五日のレポート提出後に塩釜のサンセットクルージングに同行した。クルージングからの帰途、被告は、「これを最後に君から離れる。」と言う一方で、「どうしても塩釜で抱きたい。」と原告をホテルに誘ったが、原告は断った。

(二) 原告は、同年九月四日から一六日まで地元の中学での教育実習に通い、週明けの同月一九日から二九日まで、同日締切りの単著論文を仕上げるため、被告の研究室へ通った。この間、原告が帰らせてほしいと言っても、被告は、「審査するのは俺なんだから、俺がいいと言わなければだめだ。」と言って、研究室に留まらせたり、思い詰めたような表情で原告を見つめたり、未練を示すような言動を示すことがあった。これに耐えきれなくなった原告が、同月二二日頃、はっきりと「距離を置いてください。」と宣言したところ、提出期限を一週間前に控えた翌日頃になって、被告は、従前は徐々に良くなってきていると評していたにもかかわらず、「離れてくれと言われた以上他人になる必要がある。そうして客観的に見るとこの論文は矛盾だらけだ。」と言って、単著論文をほぼ全面的に書き直すように命じた。なお、原告は、同月末頃交際相手との交際を再開し、現在まで継続している(被告本人、甲四六)。

(三) 平成七年一〇月二一日、原告と被告は日本コミュニケーション学会東北支部例会で共同発表を行い、この日までには、被告との共著論文(もっともB助教授も連名のもので、原告が実際に関与した部分は僅かであった。)も完成して、被告から個別的に指導を受けることがなくなった。共同研究の継続中、原告はできるだけ事務的に被告に接していたが、その終了後は努めて被告を避けるようにしていた。しかし、被告は、同年一〇月頃、原告に助手にならないかと誘ったり、原告が同年一一月三〇日頃に被告の指導を受けずに講座で認知言語学についての発表をした後の同年一二月一六日には、被告の専門とは関連が薄いにもかかわらず、盛岡で行われた認知言語学の講演会に出席し、被告のコメントを付したレジュメを原告宛に院生室に置いておくなど、原告に対する未練を示すかのような働きかけを続けた(甲四三、四七)。

(四) 同年一二月二五日頃、被告は、原告の自宅に、自殺をほのめかしながら、原告が通っている福島の精神科の病院名を尋ね、そこに一緒に行ってほしいと依頼する電話をかけてきた。原告は、病院名を告げただけで、電話を切ったが、被告の態度に非常に動揺し、翌二六日頃、修士課程一年次に総合演習等を受講して、勉強のことや進路等についても相談に乗ってもらったことのあるb講座のD助教授のもとを訪れて、被告からの右電話のことや、被告が他にも頻繁に電話をかけてきたり、ことあるごとに呼び出し、さらには性的なことを言ったり、触ろうとしてくると二、三時間余りにわたって相談した。D助教授は、被告との接触をできるだけ避け、やむを得ない場合でも事務的に接すること、いやなことに対しては明快にその旨意思表示すること等を助言した(甲二七、甲六一の二の二の二八ないし三一頁)。

(五) 平成八年一月一一日、原告は、被告の研究室へ行って、前記(四)の電話とその後頻繁に掛かってくるようになった間違い電話や無言電話について抗議した。被告は、前記(四)の電話については率直に認めて謝罪したが、その余の電話については自分ではないと否定した(なお、これらの電話が被告によるものであったことを裏付けるに足りる証拠はない。)。これ以降、被告は、用もないのに、時には施錠されているのを合鍵で開けて、院生室に入って座っていることが何度もあった。その一方で、同年二月以降は、被告は、原告と直接顔を合わせると隠れる等して、原告を避けるような素振りを見せるようになった(甲八二)。

(六) 同年三月頃、原告は、A教授から助手への就任を打診され、D助教授に相談するとともに、A教授にも被告が札幌出張の際に関係を迫ったり、成績や修士論文のことなど被告の一存でどうにでもなるといった発言をしたと話し、助手となっても被告と接触しないことが可能か相談した。A教授が、助手になれば上下関係もなくなるから、接触しないで済むと答えたので、原告は助手となることを決意した(甲二七、甲六一の二の二の二頁、三八頁)。

(七) 同年四月頃、被告は、新年度の講座予定表を作成するに当たって、自分の氏名に「助手教授」、「第二教授」という呼称を付して院生室に掲示するという奇妙な行動を取った。新年度の始まりに当たり、A教授は、全教官と大学院生のそろった席で、女子学生に良識ある態度をとること等学生との付合いに関する一般的な注意をして、被告にそれとなく注意を促す傍ら、女子学生を指導する際に使用するように告げて被告とB助教授にドアストッパーを渡した。原告は、被告と顔を合わせることに耐えられないとの理由で、A教授の了承を得た上で、講座の全員が出席することとされている総合演習を欠席することがあった(被告本人、甲六一の二の二の三頁、甲六一の七の二)。

(八) 同年六月、原告は助手に就任し、これに伴って仙台に転居した。同年一〇月頃、原告は、講座の修士課程二年目の女子学生から、「お前が修了できるかは俺次第だ。」といった発言を被告からされたり、私生活を詮索するような電話を掛けられたり、提出したレポートの宛名を「助手教授」と訂正されるといった異常な行動をされて困惑しているとの相談を受け、ヨーロッパ文化論講座の所属で、全学教育のフランス語を被告と共に担当していたE助教授のもとを訪れて、自分は以前被告から体に触られる、夜遅くなっても帰してくれない、札幌出張の際に性的関係を迫られたといったセクハラの被害を受けたが、この女子学生が同様の被害に遭い始めているので何とかしてほしいと相談した。E助教授は、女子学生本人からもほぼ同旨の相談を受け、被告に代わってその修士論文の指導を担当することを承諾する傍ら、これと前後してフランス語系科目の同僚のD助教授及びF教授とも相談の上、被告に原告からの訴えの内容を伝えたが、被告は心外であると答えたのみであった。その後、右三名は相談の上、研究室に女子学生を入れない、女子学生に電話を掛けない、講座の院生室に出入りしないとの三点を被告に強く注意した。また、原告は、A教授、B助教授にも同様の相談をし、講座においても、被告を当分の間担当授業のある火曜日と金曜日以外には大学に来ないようにさせるとともに、被告が修士論文の指導を担当していた女子学生の担当者を事実上他の者に変更した(甲三、二六、二八、甲六一の二の二の三頁、五頁、甲六一の六の三、甲六一の七の二)。

5  研究科による調査の経過

(一) 原告は、平成九年三月一五日頃、新聞で「働く女性の悩み一一〇番」の記事を目にしたことから、セクハラの被害を被告から受けたことを宮城県労働組合総連合の相談員と弁護士に相談した。その助言に従って、原告は、組合の支部長であったG教授に相談の上、同年四月一七日、井原科長に対し、組合を通じて上申書を提出し、被告から意思に反して性的関係を結ばされるといったセクハラの被害を受けたので厳重な懲戒を加えてほしいとの申立てをした。井原科長は、以後同年七月一六日まで、二名の評議員と共に、原告、被告及び従前から原告の相談を受けていたE、D両助教授や講座のA教授、B助教授ら関係者から個別に事情聴取を重ねる等して、調査を行った(甲六一の二の二・四)。

(二) 同年四月一七日に提出された右上申書では、肉体関係を持たされた時期及び場所については「隣県への気晴らし」の際という抽象的な記載に止まっていたものの、肉体関係を除く札幌出張以降の経過については、概ね本件訴えと同様の内容が述べられており、その後、G教授を通じて、肉体関係を持たされたのが平成七年七月二二日の盛岡旅行の折であることが伝えられた。しかし、原告は、平成七年八月に福島でさらに肉体関係を持たされたことについては、平成九年四月二三日の井原科長らによる第一回の事情聴取の時点では組合にも話しておらず、この件は同月二八日になってからG教授を通じて井原科長に伝えられた。ただし、福島での肉体関係の件を除いては、原告が第一回目の事情聴取で述べた内容及びこれをまとめて同月二五日に井原科長に提出した書面の内容は、概ね本件訴えにおける原告の主張と一致していた(甲六一の二の二、甲六一の四の二・三)。

(三) これに対し、被告は、同年四月一八日に行われた井原科長らの第一回目の事情聴取において、原告との一切の個人的な関係を否認し、同月二一日に右事情聴取で説明した事実経過をまとめた書面(以下「第一経過書」という。)を提出した上、偽造された診断書を提出して当時肉体関係を持つこと自体が不可能であったと申し立てたり、盛岡旅行についても一人で行ったと主張し、これについて他大学の教官に口裏合わせまで依頼した。しかし、井原科長らの追及や同科長の依頼を受けたB助教授の説得により、ようやく同年五月一日になって原告と肉体関係を持ったことを認めた。さらに被告は、同月八日の三回目の井原科長らによる事情聴取においては、原告と性的接触や肉体関係を持ったことを認め、特に福島での肉体関係については、一回だけでなく二回あったことを自白したものの、これらは原告との恋愛関係に基づくもので、むしろ原告の方に多分に積極的な面があったかのように弁解し、同月二六日にこれを前提とする事実経過を書いた書面(以下「第二経過書」という。)を提出した(甲六一のこの二、甲六一の三の二・三)。

(四) 一方、原告は、研究科の調査の過程では、平成七年七月下旬から八月のことについては病状が悪かったので記憶がはっきりしないと主張し、福島での平成七年七月三一日の肉体関係の有無についても明確な主張をしなかった。また、原告から提出された診断書も、病名及び通院期間が記載されたごく簡単なものにとどまり、それ以上に当時の病状を明らかにする資料は出されなかった。井原科長らは、検討の結果、被告が、原告の神経症の病状を知りながら、治りたいという原告の弱みにつけこみ、原告が被告の要求を拒絶できない病状にあったことに乗じて不当に肉体関係を結ばせたという原告の申立ての中核部分について、これを認めるに足りる確証はなく、平成七年七月から八月にかけての原告と被告との肉体関係は、男女関係のもつれという性格を内包し、合意とは言えないまでも、被告が合意と誤って判断する状況が存在していたと認定し、被告を厳重注意処分とするのが相当と判断した。そして、その方向で処理する旨予め組合と原告にも伝えた上、研究科の教官会議を経て教授会に諮り、前記第二の一12のとおり被告に厳重注意を申し渡した。原告は、研究科の右対応を不満とし、平成一〇年三月二三日、本件訴訟を提起した(甲六一の二の二、甲六一の四の一二の一・二、甲六一の七の二)。

6  以上の認定に対し、被告は、札幌出張の折に指導教官を降りたいとの発言をした際に原告に恋愛感情があると発言したことを否定する供述をする。しかし、被告自身、第二経過書では、時期はともかくとして、原告から指導を要請されたのに対して、被告が、原告に恋愛感情を持っていて危険だから、B助教授に依頼するよう提案したと明記していること、本人尋問においても、被告が原告に恋愛感情を抱いていたことを自認していることに照らして、右供述は採用できない。また、被告は、原告が精神神経科に通院していることを打ち明けられた時期について、盛岡旅行の後の平成七年七月二六日に電話で聞いたと供述し、乙第九号証にはこれに沿う記載がある。しかし、第一及び第二経過書によれば、被告は、研究科の調査に対しては、肉体関係を否認していた段階だけでなく、これを認めた後においても、一貫して盛岡旅行に先立って通院の事実を聞いていたと認めていたことに照らすと、右供述等も採用できない。さらに、被告は、本人尋問において、原告の不安神経症に関連して「サイコ・ダイビング」という言葉を用いたことを否定するが、第二経過書に被告自身がこれを認める記載をしていることに照らして採用できない。加えて、被告は、原告から距離を置こうとしていたのはむしろ被告であるかのように供述するが、被告が平成七年一二月二五日頃に原告に前記4(四)のような異様な電話を掛けたことは、そのすぐ後で原告の相談を受けたとするD助教授の陳述書(甲二七)及び井原科長への説明(甲六一の二の二の二八頁以下)に照らしても明らかであり、これに照らして、被告がこの時点でも原告に未練を有していたことは明らかであるから、到底採用できない。

被告は、以上のとおり、重要な点について研究科の調査における自らの弁明とすら矛盾する供述をしており、しかもその相違の理由について何ら合理的な説明をなし得ていない。これに加えて、被告が、研究科の調査の当初、偽造の診断書を提出したり、他大学の教官に偽証の依頼までして、原告との性的関係を否定する虚偽の弁解をしていたこと、原告の供述については、断片的であるとはいえ、家族、友人或いは原告の相談を受けた教官らの陳述書等によってある程度裏付けられているのに対し、被告の供述については、このような裏付けは全くないこと等に照らすと、被告の供述及び乙第九号証のうち、前記認定に反する部分は採用できない。

なお、原告は、D助教授やE助教授らに相談した際には、本訴で主張する被害の一部しか告げておらず、肉体関係を結ばされたとの訴えは、平成九年四月になって初めてしたものである上、その内容についても、当初は盛岡旅行の際の一回だけであるかのように申し立て、その後福島における平成七年八月一五日の件を追加し、さらに本訴になってから、同年七月三一日のもう一回の件についても明確に主張するに至ったことが認められる。しかし、当初は自分を責める部分もあり、肉体関係についてまでは告白できなかったとの原告の主張は、この種の問題の性質に鑑みて十分に首肯でき、この点は前記認定を左右するものではない。むしろ、原告の主張は、右の点を除けば、むしろ研究科への当初の申立ての時点から、ほぼ一貫していると言うことができ、被告の供述が不自然に変遷しているのと対照的であって、その信用性は高いというべきである。

以上のとおり、本件の経過について前記認定の事実が認められ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

二  争点1(不法行為の成否及び内容)について

前記認定の事実によれば、被告は、原告が修士課程二年次在学中の平成六年九月頃以降、原告の修士論文の指導を担当し、さらに修士論文の審査教官でもあった上、原告が博士課程に進学後は名実共に原告の指導教官となったもので、原告の成績を評価し、その研究者としての将来を左右できる立場にあったということができ、被告と原告との間には、教育上の支配従属関係があったと認められる。

この点について、被告は、自分は三名いる指導教官のうちの最年少者にすぎず、そのような影響力はなかったと主張する。しかし、前記認定のとおり、修士論文の作成指導が始まって以降博士課程の一年次までは、実際に原告を指導していたのはもっぱら被告であったこと、これに鑑みて、前記第二の一3のとおり、原告が博士論文を提出した場合にも、被告が当然にその審査教官となることが予定されていたことが認められ、原告の研究分野及び博士課程進学の経緯等に照らして、A教授やB助教授は、原告を指導・評価するに当たっては被告の意見に従っていたことも窺われるので、被告の右主張は採用できない。

そして、被告は、右のような支配従属関係を背景として修士論文の指導を行うに当たり、性的な冗談を言ったり、原告の顔を凝視し続けるといった原告に不快感を与える言動をし、原告が良好な環境の中で研究し教育を受ける利益を侵害したものである。また、原告が博士課程に進学後の札幌出張の際には、原告に恋愛感情を表明して指導教官を降りたいと発言し、原告から指導の継続を懇願されると、原告が指導を放棄されることを恐れて強い拒絶ができないことに乗じて、原告が不快感を抱いていることを知りながら(この点は、行為後に被告が謝罪している点から明らかである。)、洞爺湖で原告に抱きついたり、帰りの飛行機の中で手を握るといった直接の身体的接触に及んだ上、札幌出張から帰ってからは、自分の研究室で原告に背後から抱きつくといった性的接触を繰り返すなど、原告に対する性的言動を直接行動にまでエスカレートさせ、その結果、原告の性的自由を侵害したものである。さらに、原告から不安神経症で通院していることを打ち明けられるや、これを奇貨として、その治療を名目に、大胆にも自分の研究室において、キスをしたり抱きつくといった性的接触を重ねただけではなく、ついには原告の病気に対する不安感を利用して、交際相手と別れて自分と恋愛関係に入るよう迫り、三回にわたってホテルで肉体関係まで結ばせたもので、このような被告の行為が原告の性的自由を侵害するものであることは明らかである。しかも、被告は、この間、原告の自宅に執拗かつ頻繁に電話を掛ける等して、原告の私生活に過度に干渉し、原告を困惑させて私生活の平穏をも害していたものである。その上、被告は、平成七年九月に入って原告から距離を置いてほしいと明言されるや、従前の評価を一変させて締切り間際の論文の書き直しを命じており、これは、指導教官としての権限を濫用した報復と認める外ない。加えて、被告は、原告の指導を離れた後においても、平成八年二月頃までは、原告に自殺をほのめかすような異様な電話を掛けたり、用もないのに院生室に出入りするなど、原告に不快感を与える行為を続け、その私生活及び研究教育環境の平穏を害し、その結果、原告の人格権を侵害したものである。以上によれば、被告のこれら一連の行為が不法行為を構成することは明らかであって、これによって原告に多大の精神的苦痛を与えたものであるから、被告は原告に対する慰謝料支払義務を免れない。

もっとも、原告は、前記一の1(三)の感冒様症状や2(四)の不安神経症等の発症自体が被告の不法行為に起因するかのように主張する。しかし、右1(三)については、その発症時点で、被告の長時間の修士論文の指導が常態化していたと認めるまでの証拠はなく、右2(四)についても、発症当時既に被告から頻回の電話はあったものの、札幌出張前のことであって、それ以外の逸脱した性的言動はこの時点では特に見受けられず、原告が幼時から情緒不安定な面があって自家中毒を起こしたり(甲六一の七の三)、修士課程一年目のB助教授の指導についても、ストレスから胃炎を起こしたりしていること(甲六二の一)にも照らすと、多分に研究者としての将来に対する不安や、研究者となるか教職に進むかといった進路に関する原告自身の葛藤に由来するものと認められ、原告の右主張は採用できない。

三  争点2(慰謝料の金額)について

前記二で認定した被告の不法行為は、長期に及び多様である上、教育に携わる者としてあるまじき振る舞いであり、特に原告が不安神経症に苦しんでいることに乗じて、妻子ある身でありながら、自己の身勝手な欲望を満足しようと図り、原告に性的接触を受忍させ、ついには肉体関係まで結ばせたことは、悪質という外なく、このような被告の行為によって原告が将来にわたって拭い難い精神的苦痛を受けたことは、原告本人尋問の結果からも明らかである。また、関係を拒絶されるや、論文の書き直しを命じて報復した上、研究科の調査に対しても、当初偽造の診断書を提出したり、他大学の教官に偽証まで依頼して自己の責任を免れようと図るなど、事後の態度も卑劣かつ狡猾と言わざるを得ない。これら諸点に本件に現われた全ての事情を勘案すると、原告の慰謝料としては、金七五〇万円と認めるのが相当である。

四  以上のとおり、原告の請求は慰謝料として金七五〇万円及びこれに対する不法行為の後で本訴状送達の日の翌日である平成一〇年三月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこの範囲で認容し、その余の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六四条本文、仮執行の宣言につき同法二五九条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官阿部則之 裁判官瀨戸口壯夫 裁判官杉村鎮右は転補のため署名押印できない。裁判長裁判官阿部則之)

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